真田三代・戦国物語

 東信濃の一豪族にすぎなかった真田氏が世に認められるようになったのは、初代真田幸隆の時代からでした。幸隆は、川中島合戦の折、武田信玄について大活躍、しだいに頭角を著して武田方の重臣にのし上がっていったのです。これより先、坂城の豪族村上氏に真田の里を追われていた幸隆は、この機をのがさず、坂城の村上氏の居城である戸石城を攻略しました。信玄にしぶとく抵抗していた村上氏をおさえた幸隆は、東信濃一の豪族となって、さらに信玄の後ろ盾で、上州にまでその勢力をのばしていきました。

 幸隆のあと真田家の家督を継いだ昌幸は、幸隆の三男です。幼い日に、父幸隆によって武田信玄の人質として甲府に送られ、幼少ながらすでにその才知を広く認められていました。二人の兄、信綱と昌輝が長篠の合戦(天正3年・1575)で戦死したため、武田家の旗本武藤家の養子だった昌幸が継ぐことになったのです。  天正10年武田家が滅ぶと、織田、北条、徳川と主君をかえて、天正12年上田城を築き、ここにいたって真田の位置を不動のものにしたのです。ところが、上州の真田領をめぐって家康との間に戦いが始り、徳川八千数百の兵を、上田城にむかえうつ(第一次上田合戦)ことになりました。千数百の真田勢は、奇襲戦法で徳川勢を撃破し、このとき真田の名は天下にとどろいたのです。

 しかし、戦国の世はその動きを早め、豊臣秀吉の仲介もあって、徳川と講和した昌幸は、長男信之を家康に、次男幸村を秀吉のもとに人質としてさしだすことになりました。このことが遠因となって、のちに秀吉の死後、真田一族は天下分け目の関ヶ原の戦いにまきこまれていくことになり、昌幸と幸村が豊臣方に、信之が徳川方について、父子、兄弟の戦いとなります。

 関ヶ原にむかって中山道を西上する徳川秀忠の軍を、昌幸・幸村父子は上田城にむかえ(第二次上田合戦)て足止めさせました。結果、関ヶ原合の戦に間に合わなかった秀忠は、家康からおおいに不興をかったそうです。

 小早川の裏切り、毛利の傍観等により西軍(豊臣方)は敗戦、石田三成に呼応し、秀忠軍を翻弄した昌幸、幸村父子は、東軍徳川方にあって軍功をあげた信之の助命嘆願により、紀州・九度山に配流となりました。蟄居中、再起を期した昌幸ですが夢を果すことなく64歳の生涯を閉じました。

 幸村は昌幸なきあと、九度山にあって豊臣と徳川の一大事に備えていましたがついに慶長19年、方広寺事件から大坂冬の陣がおこりました。幸村は秀頼から請われて九度山を抜け出し、大坂入城、真田丸という砦を築いて徳川方に痛手を負わせ、攻めあぐねた家康と和議を結ばせる活躍をしました。

 しかし、外堀埋立てという和議の条件を徳川方は策略に乗じて内堀まで埋め、つかの間の平和のあとついに決戦夏の陣に至りました。堀を埋められ真田丸も取壊された豊臣方は、幸村を筆頭に城外戦になだれ込み、一時は家康本陣の旗も倒すほど奮戦しますが衆寡敵せず、5月7日疲れはて休んでいるところを越前隊に討取られました。敵兵にむかい「手柄にいたせ」との見事な覚悟の討死です。享年49歳。

 真田幸村・信之、兄弟なき別れの大坂の陣でしたが、豊臣家滅亡の本願を遂げた家康より、戦後兄信之は上田城主として安堵され、のちに松代に移封されながらも明治を迎えるまで真田家は藩主として存続しました。