真田三代の活躍の軌跡(城郭編3)

上田城(尼が渕城、松尾城)
 真田の本城から、約7キロ程南西の、上田盆地のど真ん中に、そこをを流れる千曲川(日本で一番長い川)の数十メートルの河岸段丘の上に、真田昌幸が築き、幸村とともに徳川の大軍を2度にわたって、撃破した実戦の名城。
 JR上越・長野新幹線 上田駅から徒歩10分で上田城の二の丸の入り口に着く。
 胸をときめかせて入城した正面が、35年程前に昔の武者溜りに建てられた市民会館の駐車場なので、一寸がっかり。
 気を取り直して本丸へと進むと、東の虎口の北櫓(やぐら)と南櫓の間に近年復元された渡り櫓が誇らしい。
 天守閣があったかどうかは定かではないらしいが、金箔の付いた瓦が出土している。

さて、ここで MYSTERY !

1.上田城本丸には、真田井戸と呼ばれる井戸があり、上田市の北側2kmに存在する太郎山の中腹にある井戸と、秘密の抜け穴で結ばれているとの言い伝えがあります。

2.北櫓に展示されているこの武者人形は 真田昌幸、幸村、そして幸村の子、大助です。上田で生まれていない大助が、なぜここに居るのだろう?

3.昌幸は、上田城の本丸に住んでいなかったのだろうか?

 上田城二の丸の外側に、御屋敷と呼ばれる藩主の屋敷がある。

 武田の流れを汲む真田の伝統であろうか?(真田には、真田本城の山城の他に、里に低い防塁に囲われた真田御屋敷跡が残されている)

 徳川の大軍を2度も退けたのは、いずれも上田の城下であって、付近の百姓・商人までこぞって戦ったと言われている。

 「人は石垣・人は城」を実戦したのは、武田信玄ではなく、真田昌幸・幸村であったかもしれない。

上田高校正門

上田城の藩主の屋敷であったものを、旧制上田中学をへて、現在の上田高校の敷地として使用されている


 長野県の東部に位置するこの付近は、太古からたくさんの人が居住していたようで、記者も、中学生の時、学校の裏の桑畑の畝の中からたくさんの石器や土器を収拾し保管している。
 その後もこの上田・小県(ちいさがた)地方・・・略して 上小(じょうしょう・・と読む)は、東山道(とうさんどう)の往来の多い街道筋だったらしく、信濃国分寺の跡も発掘されている。

 しかし、守りに主眼を置いた戦略上の理由からか、当時のこのあたりの城はほとんど山城で(真田本城・砥石城・松尾城・等など、多数)街道から一寸外れた不便な場所ばかりに存在する。
 ところが、真田昌幸は守るに便利な真田地域から、上杉と武田の合戦の行われた千曲川(川中島)の上流で、上杉の関東への出口とも言える主要ルート(北国街道)のど真ん中に、面積からすれば、大坂城二の丸と同じ規模の上田城を築き、そこを本拠地とし、幸村と移住した。
 1583年、推定わずか5万石の地方の弱小大名が、たった2年でこれを築いたのは驚異である。のみならず、新築したばかりの城で僅か2千余の兵が、徳川の7千余騎の大軍を迎え撃ち、決定的な打撃を与え潰走させている。
 また1600年、関ヶ原に参戦する徳川秀忠の 3万8千の大軍は 付近を通過の際、僅か2千5百の兵が守る上田城を6日かけても落とせず、天下分け目の戦に間に合わなかったのは、2度目の屈辱といえる。
 この一番美味しい話は、また次回!


砥石城 岩櫃城