群馬県の沼田は新潟、長野の両方から関東を結ぶ要衝の地であり戦略的価値は高い。
新潟(越後)には上杉が、長野(信州)には武田の勢力が、そして、関東には北条がそれぞれの勢力を誇り、沼田はこれらの大勢力の狭間にあった。
群馬県の中心を流れる利根川のかなり高い河岸段丘(数十メートル)の上で、北はこれに合流する薄根川に、城下を擁した南はやはり利根川に合流する片品川に守られた沼田城跡がある。
地形的には、千曲川の河岸段丘の上に築城され、矢出沢川と神川に守られた上田城によく似ている。
もしかしたら沼田を陥した真田昌幸は上田築城の際、沼田の地形を参考にしたのかもしれない。
沼田地方は中世以来、沼田氏が支配していたが、天文元年(1532年)に12代沼田顕泰がここに本丸を築城したのが最初の沼田城のといわれている。

天正4年(1576年)昌幸の叔父の矢沢頼綱(真田の歴史の表にはあまり出ないが、要所要所で渋い働きをする)が沼田を攻め、天正8年、武田勝頼の命により沼田城を調略し、翌9年、沼田城奪還のため来攻した沼田平八郎景泰を謀殺し、ここに沼田氏を滅亡させた。

武田氏が亡びたのち真田は時節の流れで徳川に従っていたが、徳川と北条が和議を結ぶとき、沼田は北条のものだから沼田を欲しい!と要求する北条に対して、真田をみくびった徳川がその引渡しを真田昌幸に命じた。

昌幸がこれを拒否し、徳川軍を向こうに回して一歩も引かず上田城にて大勝利したことは(*神川の合戦)ご存知の通り。
天正15年(1587年)昌幸は長男の信幸(後の信之)を沼田城主として入城させるが、豊臣秀吉、徳川家康の駆け引きの中、秀吉は北条氏直の上洛を促すため、真田ゆかりの墓がある名胡桃城エリアを除く沼田の大半を北条に引渡すよう昌幸に命じ、昌幸もそれに従った。

しかし北条は突然に名胡桃城を襲い城を落してしまった。秀吉はこれを怒り小田原の北条征伐(小田原の役)を決定し、北条は1590年降伏、その後に真田信之が再度沼田城主となっている。
右・沼田城本丸跡

復元された鐘楼
左・発掘調査
大坂夏の陣にて弟の幸村を亡くした信之は沼田、上田の領民の疲弊をうれい、二年間の年貢割引、三年間の諸役免除を実施した。また新田の開墾や城郭整備を行い、慶長年間には五重の天守閣を完成させている。
こうしてようやく復興がなされた時には、領民の慰安等を兼ねて歌舞伎踊りや曲芸などを呼び、随所でこれを興行させた。
そのおかげか、収穫も良く、「諸民安堵して目出度き御代とぞなりにけり」と記されているという。
信之が松代に国替えを命じられ、以降、2代目の信吉、3代目熊之助、4代目信政、5代目信利と約1世紀に渡り沼田3万石を統治してきたが、松代にて隠居していた信之が93歳で天寿をまっとうすると、5代目の真田伊賀守信利は重税政策(*注)を行い領民が離反した。

沼田城天守閣復元図
また江戸の両国橋が流失したさいの修復を幕府から命じられたが、修復に関連する汚職やや遅滞などから1681年に信利は沼田藩を除封され、沼田城も破却されて堀も埋められたとの事。

現在の沼田城跡は沼田公園となり、一部が沼田小学校や沼田女子高校の敷地となり、また野球場やテニスコートなどのスポーツ公園として市民に親しまれています。
当時をしのぶ物として、真田信吉が鋳造させた城鐘が鐘楼として建設され、その付近が沼田城の詳細な歴史を探るための発掘調査が行われています。


※注・表高3万石に対し、14万4千石を打ち出しただけでなく、城下の町屋の窓にまで税金を課し、その結果、重税を逃れるため、高い塀の上部に最小限の窓を取り付ける工法“真田窓”が出現

取材後記
犬伏の真田父子の東西決別直後、昌幸、幸村父子は疾風のごとく一両日中に沼田を経由して上田城に立ち返り、徳川との戦にそなえている。

この史実を基に、沼田〜上田間の駅伝マラソン(名付けて“真田剣客<健脚>マラソン)を、日本ロマンチック街道を通して行われたら、真田サミットの成功のシンボルとなるのでは、と夢を馳せているのは私だけであろうか?


千畳敷

鱒飛の滝
吹き割の滝
NHKの大河ドラマ、“葵 徳川三代”のタイトルバックにCG加工された滝が出現する。その幻想的な滝は、実はこの沼田城の南にて利根川と合流する片品川の上流にある、“吹割の滝”なのです。

片品川が長い間に硬い岩を侵食して形造った壮大な造形のなかに、千畳敷と呼ばれる広大な川床、高さ8mのナイアガラのように横に広がる吹き割の滝、そして鱒飛の滝などがあります。

それにしても、徳川三代の大河ドラマのオープニングに、徳川の天敵のごとき真田のゆかりの地が出てくるとは、意図してか偶然か、浅からぬ因縁を感じます。
吹き割の滝

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