今、日本列島は連日熱闘のつづく2002年日韓共催サッカーW杯の真っただ中!
各地で世界の参加チームとの交流が感動をよんでますが、一方、真田でも子どもたちが400年前の故事にちなむ交流を盛んにしています。

さてさて、そのてんまつを、講談風にお話しますと・・・

タタン!! タンタン!!!
ときは慶長19年(1614年)、憎っくき古ダヌキの家康に、大坂城は十重二十重(とえはたえ)

世間知らずの淀君と、暗愚の大将・大野修理、戦嫌いが語らいて、我等が知将幸村の、献議も聞かずに篭城(ろうじょう)の、大坂冬の陣と相成った
いかに天下の名城と、言えども篭城ばかりでは、そこに勝機は見出せぬ・・・

そこで、知将幸村は大坂城の弱点と、いわれた南の丘陵に、築いた砦が真田丸!!

神出鬼没の真田軍、挑発しては攻め来たる、敵をさんざん懲らしめた!!!

直正の勇姿
この時弱冠14歳で、初陣を飾った家康の孫にあたる松平直政のアッパレな戦い振りに、幸村が軍扇を投げ与えてこれを賞賛したという逸話は、かつてご紹介の通りでありま〜す

幸村の守る真田丸を落とせず手を焼いた家康は、大砲のタマを大坂城に打ちこんで、戦意喪失した淀君をして和睦(わぼく)に持ち込み、堀を埋めさせ夏の陣で豊臣を滅亡させたというわけです。

さて、その“真田丸”のあったと思われる場所が、現在の大阪市天王寺区玉造に程近い真田山町であります。

真田山町の真田山公園には、現在でも“史蹟・真田の抜け穴跡”があり、真田幸村の銅像も建っています。


史蹟・真田の抜け穴跡と真田幸村像


沿革を記した銅版


真田山小学校校章


元気いっぱいの真田山小の子どもたち
前置きが長くなりましたが、この真田山町に、明治7年(1874年)に創立され、間もなく開校130年を迎える、その名も真田山小学校があります。

真田山小学校の校章は、大阪市のマークと、真田の六文銭を組み合わせたデザインで、浅からぬ縁を感じざるを得ません。
信州真田鉄砲隊鳴沢会長が、大阪の真田祭りに遠征する道すがら、同じく開校130年を迎える傍陽(そえひ)小学校と、真田山小学校との交流を深めようと、両校の児童の手紙の交換が行われ始めました。

400年も前の戦場での出来事が、21世紀の未来を担う子どもたちの夢をつないでいくなんて、さすがの幸村公も想像しえなかった事でありましょう。
真田にちなんだ歴史が
ここに述べられてます



交換の手紙

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自然に恵まれた真田町の
傍陽小学校