土手道の跡(後期・大笹街道?)

根子岳、四阿山の裾野に広がる菅平高原CCとの境界や、菅平牧場の牧柵などには土手道の跡と思われる土手が延々と四阿高原まで続いていますが、これはかつての目印の三本松やシナの木からかなり離れた標高1400〜1500m付近という高いところを直線的に通っています。




土手道とは、江戸後期の嘉永元年(1848年)に“旅人が雪で道を見失う事がないよう”当時の洗馬組の横尾・真田・横沢・大日向村と仁礼宿の問屋たちが協力し、これを築いたものです。

雪に埋もれた高原を、目印の木を辿って行くのが“前期の大笹街道”とすれば、このスノーシェルターと言える土手道が“後期の大笹街道”と言う事が出来るでしょう。


当時の鳥居峠は現在の峠より500m程上にあったとの事なので、群馬県側の144号線脇の“仁礼道”の表示から四阿山の稜線まで藪道(やぶみち)を苦労して登って見ましたが、かつての鳥居峠と思われる場所に、その痕跡も発見出来ませんでした。


鳥居峠を越えれば、そこは群馬県吾妻郡嬬恋村(アガツマぐん ツマゴイむら)。

嬬恋村から草津方面を望むと、急に視野が広大に開けて感動的に見晴らしが良く、日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰路、はるか東南方向を振りかえり、入水した愛妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を恋偲び、「アズマハヤ…」(ああ、我が妻よ・・)と嘆いたのがこの地であると言う説があるというのも肯けます。

この近辺には、四阿山(アズマヤ)、吾妻(アガツマ)、嬬恋(ツマゴイ)、など関連する地名も多いのです。


嬬恋村


峠から比較的平坦な道を下って行くと、吾妻川の深い渓谷にぶつかり、ここに大笹関所跡があります。(当時は対岸にあったものを移築したそうです)

ようやく大笹街道の終点の大笹宿に到着です。

現在の大笹の144号線は道路拡張したものと思われ、昔日の宿場の面影は、道路の北側に昔の街道筋を示す江戸時代の町屋作りの建物を幾つか見ることが出来ます。

この一階より二階が道路側に突き出ている町屋建築で、一階の出梁(でばり)に小屋根が付かない様式は、中山道では奈良井宿などに見られる様式で、福島や仁礼の宿場には見られない様式です。


吾妻川渓谷

大笹宿の町屋作りの家
大笹関所跡


大笹の道標
左:草津・沼田
右:沓掛街道 

大笹街道はここから、草津温泉へ向かう“草津道”と、鬼押し出しを越えて中軽井沢に至る、“沓掛海道(街道に同じ)”に分かれます。

浅間山麓の鬼押し出し付近(神原)を経て、峰の茶屋を越えればようやく中山道・沓掛宿(中軽井沢)に出て、江戸時代の全長56kmに及ぶ大笹バイパス(須坂〜中軽井沢)の終点に到着。

車と整備された道路を使っても結構シンドイ行程でした。

全56kmの道中、とりわけ仁礼から大笹までの山中八里(約32km)を、一気に踏破するという事は、夏季でも大変なのに、冬季は命がけの貨物輸送であったろうと、胸が痛くなりました。

(この項了) 

通行手形のない人への大笹街道(仁礼街道)迂回路

大笹の関所から一里程離れたところに、不思議な“抜け道の碑”(道標)があり、和歌が彫ってあります。

 揚げひばり
  見聞てここに
   休ふて
    右を仏の
     道と知るべし  正道

「右を仏」とは関所を回避して、善光寺へ抜ける道のあることを暗示しているのだそうです。
北国街道の裏街道の、そのまた裏街道と言うわけです。