福島宿〜沓掛(現在の須坂―中軽井沢)間の距離は、北国街道の二十一里(約84km)に比べ、大笹街道ルートは十四里(約56 km)と距離は短いのは確かです。

しかしなぜ、あえて宿場施設などが行き届いた平坦で安全な北国街道を避け、その急峻な山道に加え、冬は猛烈な積雪と吹雪の菅平高原を命がけで横断する、大笹街道が使われたのでしょうか?



冬の根子岳と旧道想定図

参考図版


理由は貨物輸送の時間短縮と安いコスト!
だったのです。

当時の貨物は、宿場から隣の宿場へと、リレー方式で送られて行きました。

それぞれの宿場には、荷物を運ぶ馬や、人足(宿継人足)が待機していて、荷物の載せ替えや、運搬を請け負っていました。


しかし、宿場ごとで荷物を別の馬に載せかえる手間や費用などがかさむ事や、積み替えによる荷痛みを少なくする必要から、10回の手間が2回で済む大笹街道の輸送量が拡大していったという事なのです。

当初は信州側から、善光寺平で取れた菜種油などの荷物が関東方面に運ばれ、関東側からは砂糖やお茶などが運ばれてきました。

そのため、信州と上州の国境いである鳥居峠は「油峠」とも呼ばれていたそうです。

ビックリするのは、参勤交替の諸大名の荷物の一部も大笹街道を通って送られたらしい事も。。。

・・・もしかしたら、佐渡から江戸に送られる“金”の一部もここを通った可能性も否定できないそうです。

鳥居峠付近


大笹街道の輸送量が増えると、北国街道側で営業する途中の11の宿場は、貨物を奪われて「商売上がったり」です。

そこで、慶安三年(1650年)3月に、幕府の道中奉行所に、
“脇道を駄賃荷物が通っているので、その通行を差し止め、我々の本道を通すように”
との訴えを出しましたが、異例とも言える速さで同年8月には、“松代より東の者は大笹街道を通っても良い”と裁定が下されています。

当時の街道(使用指定道路?)に関する「規制緩和」による物流の合理化は、大名や幕府に取っても必要な処置だったのでしょう。

参考図版

参勤交替の行列のスピードは想像を絶するほど速く、平均すると一日に十里(約40km)以上を歩きとおしています。

時には一日の行程が50kmを越える強硬日程もありました。

ちなみに上田から江戸までは、5日間の日程で行き来したそうです。

江戸初期には宿場で参勤交替の荷物も宿継ぎ人足を使っていたのですが、時間と経費節減のため、宿継ぎを行わないでそのまま目的地までの荷物の輸送を請け負う、“通日雇…・とおしひやとい”という臨時雇いの輸送専門業者が大名行列の1/3を占めたとの事です。

須坂藩主堀氏の参勤交替の行列が、この菅平高原を通っていたと想像すると、スキーゲレンデから見下ろす雪原も、また異なった風景として見ることが出来ます。