真田幸村 VS 宮本武蔵




特別企画
その二


慶長二十年は西暦1615年、約390年ほど前です。大坂の役の後、元和と改められました。
その時は、慶長二十年五月七日の最終決戦

大坂夏の陣は、家康の裏切りからはじまった

前年暮れの冬の陣で大坂方は、幸村の真田丸での奮戦・活躍で大軍を誇った関東方と接戦し、膠着状態に持込みました。徳川家康は和睦案を提示、大筒(大砲)を本丸に撃ち込まれ、これに怖じ気づいた淀殿は不利な講和条件を受入れ、外堀の破却に応じて出城であった真田丸も破壊され、その廃材は埋めるため堀に投込まれました。

さらに老獪な家康は、この機に乗じて和睦案にはなかった内堀の埋立てまでしてしまい、太閤秀吉の作った天下の名城・大坂城を防衛機能のない本丸のみの「裸城」にしてしまったのです。

また幸村の武将としての資質を認め恐れた家康は、幸村の叔父である真田信尹を介して接触、「信濃一国の大名」という条件を提示して懐柔を謀ります。

この好条件を幸村は「空手形」としてはねつけ、大坂城を背に討ち死にする覚悟を決めます。

真田丸のあった地・真田山公園に建つ幸村像

4月に入ると関東方との戦の空気が漂いはじめ、ふたたび浪人たちが大坂城に集結、総決戦に向けての準備が始まりました。

裸城になった大坂城ではもはや家康の大軍を迎え撃つことはできません。大坂方は機先を制すべく奈良街道を進む軍勢の出口道明寺を迎撃地と定めました。これが5月6日の道明寺戦です。

この闘いは激烈をきわめ、情報が錯綜し幸村隊が遅参するなどして政宗率いる伊達勢の猛攻で大坂方はあわや全滅という危機に瀕しましたが、幸村たちの活躍で形成挽回し、伊達軍の迂回進行を阻止して決定的敗北を回避したのです。

そして翌7日、最終決戦天王寺戦を迎えました。(天王寺=四天王寺)

紀州街道の要衝 天王寺口

前日のうちに道明寺方面より引き上げた大坂方は、総大将大野治房が本丸を背に布陣、精鋭である幸村たち実動隊は上町大地の外線上に陣を敷きました。

道明寺戦でほとんど無傷だった毛利隊と茶臼山に陣取った幸村隊が徳川軍本隊(家康本陣)とがっぷりと四つに組む体制で決戦の朝を迎えたのです。

先鋒の本多忠朝勢は手柄に逸る軍勢です。皮肉にも幸村の兄信之の嫡子信吉はこの先鋒隊に属していました。

二陣の越前隊。そして本陣への進入を阻む第三陣に宮本武蔵がいたとされる水野勝成隊が配されました。

武蔵が後年、大坂の役の戦功で大和郡山から西国大名の抑えとして福山城にあった水野勝成を訪ねたという逸話が福山市に残っています。

ドキュメント天王寺戦
先鋒突破
双方の睨み合いは銃声により崩れました。正午頃のことです。本多勢、毛利勢のどちらかの発砲により双方の激しい銃撃戦となりました。
二陣撃破
やがて越前隊と真田隊が激突、士気と戦略に勝る幸村勢が越前隊を撃破、第三陣に突入します。幸村隊と水野の軍勢が激突するのは、この時でした。家康本陣を目指し一気に駆け抜けようとする鹿角の兜に赤備えの幸村に立ちはだかったのが水野隊です。
三陣疾駆
武蔵にとっては幸村は敵将です。その首級をとろうと武蔵は切りあいながらも幸村を目でおい、駆け寄ったでありましょう。幸村と武蔵、あるいは直接刀を交えたのか・・・
しかし、鬼神の如き幸村の勢いは三陣をも突破し本陣に至ります。
本陣蹂躙
旗本駿府衆を総崩れにさせ、馬廻り衆まで敗走しました。徳川軍旗は倒され踏みにじられ、家康は「もはやこれまで」と自害の覚悟をしたとさえいいます。それは三方原での敗戦以来の無様さでした。
帰陣討死
やがて三千あった赤備え隊も疲労困憊・戦力激減、対する駿府衆は一万五千と五倍の軍勢。本陣が形成を立て直したところに越前兵も加わり、幸村はやむなく茶臼山に引揚げることになります。そして安居神社でやすんでいるところを越前兵に討取られました。

関東方であった薩摩の島津家久は「三度目にさなだもうち死にて候。真田日本一の兵」と家中書において幸村を賛嘆。幸村は敗者でありながら、その名をとどめることになりました。

大坂の両陣の後、永い戦国の世は終わりを告げます。世にいう元和偃武(げんなえんぶ)です。
大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵/レプリカよりの部分図)
大坂の役後、黒田家が描かせた六曲一双屏風。この図は天王寺付近の赤備えの幸村隊を描いた部分。


武蔵擁護派の菊池寛氏と宗矩派の直木三十五氏との文壇での論争が吉川英治氏の「宮本武蔵」執筆の契機になったといわれます。


宗矩と武蔵は小説「宮本武蔵」で、沢庵和尚を介して対面したことになっていますが、史実の裏付けはありません。


本稿は「水野勝成大坂陣人数覚」(福山城鏡櫓文書館蔵)の中の宮本武蔵が剣豪・宮本武蔵であるとして真田幸村に絡め構成したものです。今後の研究成果などを受け、さらなる考察を予定しております。
一方、もうひとりの武人・宮本武蔵は「遅れてきた」とも称されます。戦の主流が刀から鉄砲にとってかわった戦国、さらにその戦乱がさってやがて来る時代は刀を精神的なものに変えて行きます。動的な武から静的な武へ、その転換期に武蔵はあったのです。

よく兵法者としての武蔵と対比されるのが柳生宗矩です。宗矩は将軍家指南役として東下し江戸で大成、「兵法家伝書」を著します。対して武蔵は西国に向かい、晩年に肥後熊本の細川忠利に客分として迎えられ「五輪書」を残しました。

武蔵を客人とした忠利の父忠興は、大坂の役における真田幸村を「古今これなき大手柄」(細川家記)と讃えていたそうです。島津家と同じく外様大名である細川家のこうした気風は、敵であっても幸村を率直に評価しているわけです。

大坂両陣で目の当たりにした幸村の戦いぶりに、武蔵が宗矩(徳川体制)と違う生き方をさせたもの、それまでの士官を志した道とは異なる、いわば在野の武人としての生き方をもとめ西国に向かわせた由縁があるのではないかと考えるのです。

生涯師のいなかったとされる武蔵ですが、この武蔵の転換期、あり方にインスパイアー(決定的影響)を与えたのが、戦場を疾駆していった戦国最後の武将・真田幸村の散り際ではなかったかと思われてなりません。

          (了)


その一へ 番外へ 2003年5月記