北本原駅跡付近

真田町を散策すると、駅の無い所に“駅前食堂”という大衆食堂があったり、プラットホームの跡らしきものや、駅舎らしきものを発見する事が出来ます。
これは、今から26年前の昭和47(1972)年まで営業していた、真田と上田を結ぶ私鉄“上田丸子電鉄”の『真田傍陽線』の名残りなのです。

このページの資料、写真は、上田市マルチメディア情報センターの許可を得てCD-ROM「丸窓電車」より転載させて頂きました。

歴史を調べると、上田小県地方一帯に敷設された私鉄、丸子線・青木線・別所線・西丸子線に次いで、昭和3年5月1日、地元真田の5村が上田温泉電軌株式会社に資金を拠出するという、強い要望で開業したもので、[上田―真田]間12・8kmと[本原―傍陽]間3・1kmの全線が開通。運賃は35銭だったといいます。

当初は『北東線』と呼ばれていましたが、昭和14年には『菅平鹿沢線』と改称、昭和35年には『真田傍陽線』と改称されました。

その後、この私鉄は何回かの社名変更や、合併を行い、上田丸子電鉄として、この地方の多くの人の足として親しまれてきました。
終点の真田は、角間温泉、菅平高原の玄関口であり、これを契機に菅平はスキー場として発展して来たという訳です。



とはいえ、当時の真田駅から菅平までの道は細く、舗装も完全でありませんでした。
バスのすれ違いの時には、バックして待機するバスのお尻が大洞川の崖の上に飛び出し、最後尾に乗った人は、そのまま谷底を覗くスリルを味わったものです。

車両“モハ5250型”は、戸袋に丸い窓のある事から、“丸窓電車”とも呼ばれ、『真田傍陽線』では昭和30年代の一時期走っていたそうです。
木製のドアは、真鍮の掛け金を外して、手で開け閉めするもので、子供の頃、重くて一人で明けられず、降りそこなった事もありました。
そう言えば、ドアは最後に閉める方だけ自動化されました。

ほとんど、1両か、2両で運行され、無人駅から乗ると、車掌さんが黒いバックから、駅名が沢山書いてある短冊の束のような切符帳を取り出し、乗った駅と降りる駅に挟みで穴をあけてくれました。

本数も多くないので、1本逃すと学校は遅刻となります。
そこで、駅に電車が止まっているのを発見して、遠くから走っていくと、発車を遅らせて待っていてくれることもありました。
ある時には、発車したものの、諦めずに走ってくる男の人のため、駅のスグ横の踏み切りで臨時に止まり、車掌さんが、プラットホームの反対側のドアを開け、道路に立っている男の人の手を持って、電車に引っ張りあげて乗せてくれるのを見た事もあります。 時には、何両かの貨車も接続され、山盛りの石炭や、沢山のりんご箱、牛なども運んでいました。



また、危険な事に、線路の上に5寸釘を置いて、ゆっくり走る電車の車輪でペシャンコにつぶし、小刀を作るなどした悪童もいました。

しかし、このように地元に親しまれた電車も、モータリゼーションの波に対抗できず、営業継続を願う運動も赤字を救済するには至らず、昭和47年2月19日多くの人に惜しまれつつ、『真田傍陽線』は廃止となりました。

現在上田交通は、上田と別所温泉を結ぶ別所線のみが新しい電車で元気に営業をしています



なお、この丸窓電車のすべてを紹介するCD−ROMが“上田市マルチメディア情報センター”より発売されています。

丸窓電車』ホームページ
http://www.umic.ueda.nagano.jp/marumado
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↑現在の傍陽駅と過去の同駅↓