水車の大きさは、直径 9尺(2・7m)、幅1・5尺(45cm)の立派なものなのですが、残念ながら下半分が朽ちてしまって、上半分が軸に乗っているという消滅寸前の状態です。
しかし、内部には比較的しっかりした、ソバなどを粉にする石臼と、石の臼に穀類を入れて杵で搗(つ)く臼が3基、藁打ちに使う杵が一基ありました。

この水車小屋の持ち主である、一之瀬直樹さんに、この水車が実際に動いていた頃のお話をお伺いすることが出来ました。


“そうですね、この水車を始め、近所の水車も昭和30年代の中くらいまでみんな使っていたと思います。
これは個人の水車なのですが、10軒くらいで使う共同水車もあり、近所で木の札や鍵を順に回したり、ノートに順番を書いたりして使っていました。
どのように使ったかは、実際に使っていた奥さんたちに聞くほうが良いでしょう・・・”

ということで、すぐお隣の一之瀬道治さんご夫妻をお訪ねし奥さんの千枝さんにお話ししていただきました。


“だいたい一回に2斗、自宅で当座に食べるだけの玄米を精米しました。朝持っていって自分でセットして、夕方搗きあがったのを持って帰る。夕方持っていったら、朝持って帰るというくらいです。

玄米に、茶碗何杯かの搗き粉(つき粉=歯磨き粉のような鉱物質の粉)をまぜて、まんべんなく精米するため、ワラを三つ編みにしたようなワッコを作って臼の真中に置き、杵が米をつくと順に脇に寄り、米が循環するようにセットするのです。

搗き終わると、まだ暖かい白米を、ふるいにかけ、糠(ぬか)とつき粉をふるい落とし、南京袋に入れて持って帰るのです。

つき粉がまだ残っているので、水車で精米した米は、普通の米より良く洗わないといけない、と言われていました。
麦なんかは、真中の黒い線がどのくらい消えたかで、何分つきにするか、見たもんです”


――それにしても40年も前の輪っこがよく取っておいてありましたね!

“こんなのは、倉の壁に引っ掛けておけば、捨てない限りあるもんだね・・・”
 なんとなく嬉しくなるお話でした。

“その頃は、菅平に上る見ず知らずの人が、すみませんが泊めてもらえませんか? と言って、泊まって行って、それが縁で何年もお付き合いしたり・・・
菅平からスキーのまま、この下の横沢あたりまで、道路をシューっと滑り降りて来てる人もいたもんです・・・
昔は、車も少なかったし、時代が違ったからねえ・・・”


便利になった代わりに、何か大切なものも過ぎ去って行ってしまったような気になりました。

それにしても、この水車、このまま朽ち果てさせるのは心残りです。調べると、水車の部分と、中の軸が外れるようになっていました。

隣の群馬県の吾妻町に今でも水車を作っている職人さんがいて、TVなどでも紹介されていたので、以前、復元出来るか聞きに行ったことがあります。

【水出登四男さん 電話:0279-67-2173】


その時のお話では、水車の輪だけならそんなに費用はかからないそうでした。

と言うことは、今ならまだ使用に耐えるように復旧することが可能なのです。
観光用に人目につくところに移設された水車小屋は、他でも見ることができますが、あるがままの環境で、そのまま復旧されて稼動している水車はまずありません。

どうにか、この水車を復旧して、毎年真田町で開かれる、“そば祭り”のそば粉を、この水車で挽いて食べてもらうなんて、出来ないものでしょうか?
また、振興公社で取り扱うそば粉は、全部この石臼で挽く・・・
ゆっくりした石臼で挽いたソバ粉は、風味が飛ばないので、珍重されるそうです・・・なんて、夢がありますよね”

“それでもね、水車は結構音がするんで、良いとか悪いとか、いろんな意見があるもんでね・・・”と一之瀬直樹さんのお話でした。

とにかく、神川と真田は、本当に密接な関係にあるのだなあ! と実感しました。