信州真田鉄砲隊の活躍

真田一族は代々非凡な戦術家で、調略・奇襲・火攻め・水攻めを得意として戦国の歴史の中に異彩をはなっている。

とりわけ火薬の使用においては、忍者伝説の信憑性を裏付けるような記録が残されている。
裏の忍者にたいして、表の鉄砲が戦国の歴史を変えてきたことは云うまでもない。

そして平成の真田には、当時の鉄砲隊の活躍を再現しようと(信州真田鉄砲隊)が結成され、要請があれば日本全国どこにでも赤備えの鎧に身を包み、援軍に駆けつけてくれる。


一斉射撃の写真
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1、活動記録
初陣 平成6年10月16日 岐阜県関ヶ原町(古戦場関ヶ原フェスティバル)

以降、奈良県高取町(たかとり城祭り)、和歌山県九度山(お城祭り)、長野県松代町(真田十万石行列)、長野県上田市(上田真田祭り)、大阪市(大阪城 平成の大改修記念イベント)、鳥取県広瀬市(戦国尼子フェスティバル)などなど1年に十数回以上参戦し、全国にて数多くの武勲をあげている。

とりわけ、NHK堂々日本史(当時)には出演の常連である。

なお、砲術演武だけでなく、火縄銃の研究にも高い見識と知識をもっている。


平成9年11月10日朝日新聞記事

2、装備構成

鳴沢会長(夢鳴斉)をはじめとし、一本鎗(夢 鎗斉)、内海(夢海斉)氏ら9名が、火縄銃、赤備えの甲冑に太刀を佩き、六文銭の旗指物に草鞋履き。といういでたち。

3、火縄銃

火縄銃は、前装滑腔式の銃(内部が滑らかに磨かれている銃身の、銃口より、黒色火薬と、丸い鉛の弾丸を棒(かるか)で押し込み、銃身の後ろの小穴より、火の付いた火縄で火薬に着火させる方式)で、現在TVなどで見るライフル銃(銃身に螺旋条の溝が刻まれていて、どんぐり型の弾丸に横回転を与えて命中精度を高める方式)とはかなり異なる。


火縄銃の模式図  

火縄銃の銃身の長さは、大体1m前後、口径も様々であるが、丸い弾丸1個の重さ(匁=もんめ=3.75g)で口径を表し、小口径は細筒と呼ばれ2匁筒(11mm)前後、通常の軍用の中筒は6匁筒(15.8mm)〜10匁筒(18.7mm)前後、大は大筒と呼ばれ、はては百匁筒(40mm)など多種多様である。


中筒 

大筒 

関ヶ原の合戦では、東軍・西軍あわせておよそ5万挺の火縄銃が投入されたという。(日本全国の推定数量は15万挺といわれ、此の数量は当時のヨーロッパの銃の総数をはるかに上回ると言われている)

しかし、江戸時代になるとこれらの軍用銃は実戦に使用されることなく、競技・狩猟を主たる目的とした小口径の銃や、農具など打ち直されたらしく、戦国時代の銃は現在ほとんど残っていない。

全国の教育委員会に現在登録されている火縄銃は約65000挺。代表的な国友筒(品質精度が高い)、ついで堺筒(銃に様々な装飾が施されている)が有名。

火縄銃は1発づつの玉込めに時間はかかるものの、引き金が軽く動揺が小さいことから、命中精度はかなり高く、15間(27m)の距離で2寸(6cm)の的に集中させることが出来、有効射程も200m位。最大射程距離は500mを越える性能を有する。

大量の数の連射では、天山流砲術家の牧山猪七が1852年10匁筒で、15間の距離から2100発を打ち1904命中という脅威的な記録がある。

また、町打(ちょううち)という100mをこえる遠距離射撃も行われたそうで、3町(327m)の距離から3尺(90cm)の的を打って競ったというのには驚かされる。

また細川家の家臣松野亀右衛門という名手は、島原の乱で原城を攻撃する際、5町(545m)先の敵を打って外さなかったそうである。

4、援軍依頼方法
真田鉄砲隊への援軍依頼お問い合わせ先

郵便番号 386-22

長野県小県郡真田町大字傍陽6242

電話 0268-73-2537

信州真田鉄砲隊 会長・鳴沢 潔

交通費、食費、多少の恩賞にて、参上つかまつります。