川久保橋


川久保橋付近の谷

一説には、真田軍が、神川の上流を塞き止めて水をためておき、一気に押し流した、ともいわれています。
地の利を知り尽くした知将の真田昌幸なら十分考えられる事です。

そう思って神川を調べると、上田市と真田町の境の川久保橋あたりは、長くて、深い谷となっているので、ここを塞き止めるとかなりの水量を確保できるだろう、と想像できます。

なんとなく真田昌幸になったような気分でワクワクします。

しかし、緒戦でいくら完敗したとは言え、圧倒的な兵力に勝る徳川軍は、なぜ上田城を再度攻めることがなかったのでしょう?

なぜか、また千曲川を渡り北御牧村まで退却して陣容をととのえ、そこから真田の支城である丸子城攻めをしているのです。

<気の毒なことに、徳川軍は、そこで5000もの援軍を受けながら、結局、丸子城も落とせず、空しく小諸城まで引き揚げていくのですが・・・>

もし、再度上田城を攻められたら、同じゲリラ戦法は通じず、苦境に追い込まれた事は明白なのですが・・・(注1)

塞き止めた水は、一時は激しく流れますが、翌日の大軍の渡河を阻止するほど流れ続ける事は不可能ではないでしょうか・・・



そこでもう一つの、神川上流の豪雨説、を検証してみました。

[神川紀行その2]の菅平ダム特集でも触れたように、上田周辺は日本でも最も雨の少ない地域なのです。

ちなみに真田町の役場の前の消防署で観測した平成9年の年間降水量は664.5mmでした。
しかし、同じ真田町でありながら、神川の水源である菅平高原の年間降水量は1041mmと1.6倍も違うのです。
しかも、9月の降水量は年間を通じて最も多いのです。

上田あたりが晴れていても、菅平高原では、短時間に前が見えないほど激しい雨が降るのは良くある事です。
まだ、菅平ダムもない時代です。

すり鉢状になった菅平高原に降った雨が、1時間もしないうちに、神川の流れを逆巻く濁流に変えたのかもしれません。

それから15年後・・・

慶長5(1600)年関ヶ原の戦いに参戦しようと、宇都宮から街道を西上する家康の息子秀忠は、3万8000もの大軍にモノを言わせ、行きがけの駄賃とばかり攻めた、城兵わずか2500人!の上田城を幾日経っても落とす事が出来ませんでした。

あきらめて関ヶ原にたどり着いた時には、すでに天下分け目の戦は終わって四日後、何の役にも立たなかった・・・。<激怒した家康はしばらく秀忠の目通りをゆるさなかったそうです>

「上田軍記」や「烈祖成蹟」などの書物に記された、この第二次上田合戦のエピソードでも、神川の増水を利用した真田軍が、10倍以上の徳川軍をサンザン苦しめたと言われています。

まさに、神川は真田にとって守りのカナメ、文字通りの“神の川”でもあったわけです。



注1.「加沢記」は、沼田藩五代藩主真田信直の家臣加沢平次左衛門が記述したもので戦国期の真田氏を知る貴重な書

「城地二里四方の農民共籠城しければ、彼等を集めて男女共に三千余人、百姓の妻わらへんには石つぶてをうたせられたり」とあるそうで、全住民を挙げての総力戦だったのだそうです。

なにか、胸がキュンとなるほどの感動を覚えるのは、私一人だけでしょうか・・・・

追 記

徳川の軍勢は、なぜ昌幸の注文通りの道筋を攻めたのでしょう?

神川のもう少し上流は、数メートルの谷を形成して、川を渡るのに適していませんでした。


数メートルの谷をなす神川

国分寺は、建立されたときは、昔の東山道に面していたと思われ、後の北国街道と重なる部分も多いようです。
そして、平将門と平貞盛の戦いで焼失した後は、後に水田となるまでは、広大な空き地となっていたため、戦場となるにはもってこいの広さであったと思われます。


信濃国分寺跡地

結局、真田をあなどった徳川軍は、メインストリートをそのまま攻め込んで、注文にはまったという訳でした。


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