神川紀行4

今日9月1日は「防災の日」、先月8月中旬、関東地方に降った豪雨が、各地の河川の急激な増水となって河原にテントを張っていた人たちを押し流し、多数の犠牲者を出した事は記憶に新しいと思います。

今さらながら、川の怖さを見せつけられた悲劇でした。




実は、真田町を南北に貫いて流れる神川の下流でも、少なくとも数百人の屈強な男たちが、濁流にのまれて命を失うという歴史的な事件?があったのです。

時は天正13年閏8月2日(西暦1585年、9月25日頃)神川が千曲川に合流するあたりでの出来事でした。



真田父子上田籠城図


千曲川の流れ(大屋付近)


北国街道国分寺跡付近


信濃国分寺跡碑


どんな強い相手でも、無理な要求であれば、敢然と立ち向かう、 我らが真田魂ここにあり!

当時の真田昌幸が臣従していた徳川家康の“上州沼田の領地を北条に譲れ!”という三年来の命令を、われらが昌幸は、
“ 沼田は自分の力で獲得したもので、どの主君からもらったものではない! そんな要求は受けられない!”(・・・カックィー!)
とはねつけた事に端を発した戦が、第一次上田合戦と呼ばれた戦でした。

メンツをつぶされて激怒した家康は、大久保忠世らを将として 七千余人もの大軍を動かし、“コシャクな真田め! ”と、わずかな兵力で築城が終わっていない上田城の真田を攻めさせたのであります。

昌幸は、人質として松代の海津城に次男幸村を送り、上杉景勝に援軍を請い、後詰めを固めたものの、各城に点在する真田軍の総勢は、「騎馬二百余騎、雑兵千五百余人都合二千余には過ぎざりけり」(「加沢記」)と、圧倒的に不利でありました。

北国街道から押し寄せた徳川の大軍は、千曲川(日本で一番長い川)を現在の大屋付近で渡り、今の蒼久保付近に陣取ったのです。
(一説には、国分寺付近に布陣したとの説もありますが、このような大軍が神川を渡り、川を背にして布陣するのと言うのは、不自然だと思います。)

人数にモノをいわせて、神川を一気に押し渡った徳川の軍勢は、上田城下の道にしかけられた千鳥掛けの柵の間をぬって城に退却するオトリの真田軍を、
“真田、口ほどにもナシ! ”
と追撃し、かさにかかって大手門を突破し、二の丸に攻めかかったとき、ここぞとばかり反撃に移った城兵と、城下町に配置していた真田の伏兵(農民兵)の猛攻に胆をつぶして総崩れとなったのです。

攻め込んだ道を、国分寺から神川に追いつめられ、我先に逃げて渡ろうとした徳川の軍勢は、折りから増水していた神川の濁流に、次々と飲み込まれたのでR(あ〜る)

この時、真田軍に追撃された徳川軍のテイタラクを大久保忠世の弟の彦左衛門は「三河物語」で、
   ――ことごとく腰が抜けて、 震えて返事も出来ない・・・
   ――そのアリサマは、まるで下戸にむりやり酒を飲ませたようだ・・・
   ――こんな兵を養っておくのは、もったいない くらいだ!
と嘆いたほどでした。


この「神川の戦い」にかんする
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この勝ち戦の様子は、真田幸村の兄、信之が手紙で、「国分寺にて、敵兵を1300ほど討ち取った」と書いています。そのほかの兵にいたっては数知れずです。
対して真田の兵はわずか40余りを失ったのみであります。

 真田の完勝でした!

それまで、地方の無名の存在だった真田一族はこの戦で、一気に全国にその名を響かせたのです。これらの痛快な戦記は多数の書物に書かれていますので、ぜひ読んで下さい。

さて、ここでクエスチョン!

いかに慌てて逃げたとは言え、攻めるときに渡った神川付近で、徳川軍は、なぜそんなにたくさんの兵を失ってしまったのでしょうか?

神川も千曲川に合流する地点では、流れも緩やかで、現在の川幅も約50mとゆったりした河原となっています。
徳川軍は上田攻めの前後に2回も、河原の幅300m以上の千曲川を安全に渡っているのです。


おだやかな流れの神川(千曲川との合流付近)

一体何が起こったのでしょう?